voxdeiの日記

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【杉田水脈議員と新潮45】空気を読む事と議論をする事の背反

 最近LGBTに関して杉田水脈議員や立場が近しい方々の意見を掲載した新潮45という雑誌が休刊となった。私自身は手に取った事もない雑誌だったが点と点を線でつなげれば、一連のLGBTに関連する記事に関するヘイトで保身あるいは幕引きの為に廃刊になったと言えるだろう。

 これは実に嘆かわしいが、同時に実に日本的である。つまり、日本は民主主義を闘争の末に勝ちえた歴史がないので、時に争いに発展するような真剣な意見のやり取りに基づいた社会的同意・合意の形成もあまりなされないし、馴染みがない。

 これ自身は別に悪いこととは限らない。無用な争いを避けて社会的同意・合意の形成をする仕組みが別途あるからである。日本においてそれは、「空気を読む」ことによる無言の同調圧力と「鶴の一声」による幕引きが主である。

 この日本的な合意形成の手段はある程度社会の構成員が同質であり、意見のバラツキが少ない場合は非常に効率的であるが、多様性が増し、正反対の意見が存在するようになると、全く機能しなくなる。つまり、片方の意見が封殺され、そのテーマを議論する事すらタブーになる。

 今回の一連の流れもまさにそれである。そもそもストレートの人はLGBTの人の心理等は分からないし、逆も然りである。この二つの平行線は永遠に交わらないのである。交わらないながらも、本来日本はセクシャリティに対する宗教的な忌避がないので、それが社会を分断するテーマではなかった。

 例えば戦国時代では男色は武士の嗜みであり、戦場において背中を任せられる同性にしか持ちえない信頼感に基づいた関係が存在したと同時に、家督の維持のための政略結婚や家同士の異性関係もあった。どちらが純愛かというと、性別の違いがあまり意味がない程、ケースバイケース。

 以前も書いたようにLGBTというのが日本において社会・政治のテーマになったのは、単なる西洋からの概念の輸入であって、ある意味民主主義と同じなのである。そもそも日本古来のLGBTに相当する人は西洋で味わっているような社会的迫害など経験していない。

 日本は全ての事柄において、相手の立場で考える事を前提として人間関係が成立していることが多いと感じる。それが出来ないと、空気が読めず、社会に適合できない。それで引きこもりやニートになるわけだ。しかし、相手の立場になって考えれない程バックグラウンドが異なる人間関係というのがあって、それの一つがLGBTであるわけだ。 

 それでも無理に相手の立場に立って、望ましいと思われる結論を急いで、立場の違いや無理解の発露、社会の「和」を乱しかねない対立をいち早く隠匿する。つまり、相手の立場が分からない事、空気が読めない事は「恥」であって、議論することはそれを拡声器で周囲に言いふらす様な事で恥の上塗りなので、議論も「悪」。そうやって幕引きする方が結果的に勝者であるという独り善がりな感覚で議論をひたすら回避するのが日本的な美徳なのであろう。