voxdeiの日記

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【杉田水脈議員と新潮45】LGBT議論の違和感

 LGBTは個人のセクシャリティの話なので、基本的人権と同様、個人レベルでは保証されるべきだし、それが違法であったり、それによってなんらかの社会的な不利益を被るべきではない。

 近年、法的や社会的に禁止あるいは差別されているLGBTの部分は世界的にも徐々になくなる方向性であり、LGBTである事が理由で受ける明確な社会的な不利益は日本においては実質無いと言ってよいであろう。そして次のフェーズとしてLGBTは迫害されるものではなく、LGBTである事を肯定するためのイベントや行事が社会や企業などあらゆるレベルで行われ始めるのを見ると違和感を感じる。この違和感は何なのか?

 かたやLGBTではないストレートあるいはヘテロセクシャリティは社会や企業においてはセクハラ等の問題もあり、どんどんタブー化され、男性が女性の容姿にコメントする事さえ忌避すべきとのトレンドがあり、もう一方でLGBTのディスカッションや会合は率先して行われる。

 一種の逆転現象が起き始めていて、LGBTは否定しないけど、でも個人としては公の場で接したくない人の居場所がどんどん失われており、ストレートなセクシャリティが抑制されつつある。これが違和感の正体である。

 そもそも何故LGBTは公に議論されるテーマなのか?一つは教育的な側面、LGBTはとかく誤解されやすいものなので、正しい理解を広める為にディスカッションしたり、行進したり、イベントにしたり、政治課題にしたりするのだろう。

 もう一つは、肯定的な差別、つまり今までがマイノリティで迫害されていたので、それを埋め合わせるような積極的に優遇する逆差別の意味合い。これは諸外国の方が強い気がするが、日本でもLGBTに対してそういうポジションを取る側面もあるだろう。

 一方でLGBTはある意味セクシャリティの進化の先端でもあるので、常に変化していて恐らくLGBTコミュニティー内でも様々な見解や意見があるのであろう。自分はそういうコミュニティーに属してないので間接的な推測であるが、そもそもLGBTQという言い方をし始めている国もあり、要はストレートでないセクシャリティを一括りにしている時点で、非常に乱暴なラベリングで、議論そのものを複雑化している。

 で、件の杉田水脈議員や彼女を擁護する人たちの意見だが、それも保守的、伝統的なセクシャリティの立場としてそういう発言をする自由は何よりも沈黙を社会に強いられる事が歴史的に多かった立場であるLGBTのコミュニティーが発言する権利は擁護すべきであると思う。その意見には全く賛同しなくても、そういう意見そのものを否定したら、自らの悲劇の再生産。

 意見に賛同できない場合は、無視か、ちゃんと反論するかだが、LGBT側を代弁していると思われる反論を見ても、わざと誤解させるような文脈の切り取りとかを行い、政治的なネタとして煽ってるだけにみえる。結局LGBT当事者じゃない人間同士の言い争いにしか見えない。

 また日本においては伝統的にセクシャリティに関しては非常に寛容で多様性があった。そもそもLGBTの議論と解放は特定の宗教においてタブーとされるセクシャリティに抗う歴史であり、宗教色が強い国が教義として社会的・精神的・文化的にセクシャルマイノリティーを迫害していた背景がある。

 日本はそもそもそんなに宗教色が強い国ではないので、セクシャリティのタブーも少なく、LGBTそのものの社会的迫害の歴史もあまりない。個々人レベルでは色々な人は居るだろうが、それこそセクシャリティの本質である。今の日本のLGBTの議論はLGBTという元々日本に馴染みがない括りを輸入したことで、そもそも無かった分断を生み出し、そこで交わされる様々な本音や建て前の議論にLGBT当事者が晒される事で自らのセクシャリティに対する危機感を感じる。

 結果的に感情的な応酬になって、一方を悪者と仕立て上げようとするメディアの煽りに大衆が踊らされている。どっちが悪者という議論ではなく、セクシャリティそのものは個々人の問題なので、本来はセクシャリティと関係無く、LGBTという集団によって浮かび上がる社会の課題とかを解決すべく議論をするのがLGBTという括りの意義ではないだろうか?