voxdeiの日記

様々なテーマで思った事を書いていきます。

【LGBT】LGBTと魔法使い

 LGBTは生きづらいとか、自分を偽って生きていたとか、周りに認められない、受け入れられないのが苦しいとかそういう話ありますが、別にそれLGBTだけじゃないですから!

 ヘテロやストレートであっても、異性との関係がちゃんと構築できず、ずっと童貞・処女のまま過ごす人も多い訳です。巷では40歳になってもそのままだと魔法使いに転生できるそうです。世の中魔法使いが実は結構多い。しかもストレートであるため、単にコミュ障とか見た目の問題とかで片付けられてまったく救いがない。

 以前の日記でも触れましたが、所謂「正常・健常・多数」なグループの中の負け組は、「少数派」の勝ち組よりも救いようがない!これって別にセクシャリティの話だけでなく、最低賃金で働くより生活保護貰った方が良い問題、ちょっとお頭が弱い学生の場合は真面目にするより不良のほうが手助けされる問題等、いろいろな場面である構造です。

 この逆転現象、なんかいい名前つけたいです。特に踏み外してないが故に問題意識が本人も周りでも醸成されず、自助で救いを見出さなくてはいけない、蜘蛛の糸すら足らされない孤高の集団、、、カンダタ現象とでもいいますか。そもそも悪行三昧をカンダタがしていなければ、蜘蛛を殺さなかったという善行も釈迦は気にすら留めないわけで。。。。

【杉田水脈議員と新潮45】空気を読む事と議論をする事の背反

 最近LGBTに関して杉田水脈議員や立場が近しい方々の意見を掲載した新潮45という雑誌が休刊となった。私自身は手に取った事もない雑誌だったが点と点を線でつなげれば、一連のLGBTに関連する記事に関するヘイトで保身あるいは幕引きの為に廃刊になったと言えるだろう。

 これは実に嘆かわしいが、同時に実に日本的である。つまり、日本は民主主義を闘争の末に勝ちえた歴史がないので、時に争いに発展するような真剣な意見のやり取りに基づいた社会的同意・合意の形成もあまりなされないし、馴染みがない。

 これ自身は別に悪いこととは限らない。無用な争いを避けて社会的同意・合意の形成をする仕組みが別途あるからである。日本においてそれは、「空気を読む」ことによる無言の同調圧力と「鶴の一声」による幕引きが主である。

 この日本的な合意形成の手段はある程度社会の構成員が同質であり、意見のバラツキが少ない場合は非常に効率的であるが、多様性が増し、正反対の意見が存在するようになると、全く機能しなくなる。つまり、片方の意見が封殺され、そのテーマを議論する事すらタブーになる。

 今回の一連の流れもまさにそれである。そもそもストレートの人はLGBTの人の心理等は分からないし、逆も然りである。この二つの平行線は永遠に交わらないのである。交わらないながらも、本来日本はセクシャリティに対する宗教的な忌避がないので、それが社会を分断するテーマではなかった。

 例えば戦国時代では男色は武士の嗜みであり、戦場において背中を任せられる同性にしか持ちえない信頼感に基づいた関係が存在したと同時に、家督の維持のための政略結婚や家同士の異性関係もあった。どちらが純愛かというと、性別の違いがあまり意味がない程、ケースバイケース。

 以前も書いたようにLGBTというのが日本において社会・政治のテーマになったのは、単なる西洋からの概念の輸入であって、ある意味民主主義と同じなのである。そもそも日本古来のLGBTに相当する人は西洋で味わっているような社会的迫害など経験していない。

 日本は全ての事柄において、相手の立場で考える事を前提として人間関係が成立していることが多いと感じる。それが出来ないと、空気が読めず、社会に適合できない。それで引きこもりやニートになるわけだ。しかし、相手の立場になって考えれない程バックグラウンドが異なる人間関係というのがあって、それの一つがLGBTであるわけだ。 

 それでも無理に相手の立場に立って、望ましいと思われる結論を急いで、立場の違いや無理解の発露、社会の「和」を乱しかねない対立をいち早く隠匿する。つまり、相手の立場が分からない事、空気が読めない事は「恥」であって、議論することはそれを拡声器で周囲に言いふらす様な事で恥の上塗りなので、議論も「悪」。そうやって幕引きする方が結果的に勝者であるという独り善がりな感覚で議論をひたすら回避するのが日本的な美徳なのであろう。

【杉田水脈議員と新潮45】LGBT議論の違和感

 LGBTは個人のセクシャリティの話なので、基本的人権と同様、個人レベルでは保証されるべきだし、それが違法であったり、それによってなんらかの社会的な不利益を被るべきではない。

 近年、法的や社会的に禁止あるいは差別されているLGBTの部分は世界的にも徐々になくなる方向性であり、LGBTである事が理由で受ける明確な社会的な不利益は日本においては実質無いと言ってよいであろう。そして次のフェーズとしてLGBTは迫害されるものではなく、LGBTである事を肯定するためのイベントや行事が社会や企業などあらゆるレベルで行われ始めるのを見ると違和感を感じる。この違和感は何なのか?

 かたやLGBTではないストレートあるいはヘテロセクシャリティは社会や企業においてはセクハラ等の問題もあり、どんどんタブー化され、男性が女性の容姿にコメントする事さえ忌避すべきとのトレンドがあり、もう一方でLGBTのディスカッションや会合は率先して行われる。

 一種の逆転現象が起き始めていて、LGBTは否定しないけど、でも個人としては公の場で接したくない人の居場所がどんどん失われており、ストレートなセクシャリティが抑制されつつある。これが違和感の正体である。

 そもそも何故LGBTは公に議論されるテーマなのか?一つは教育的な側面、LGBTはとかく誤解されやすいものなので、正しい理解を広める為にディスカッションしたり、行進したり、イベントにしたり、政治課題にしたりするのだろう。

 もう一つは、肯定的な差別、つまり今までがマイノリティで迫害されていたので、それを埋め合わせるような積極的に優遇する逆差別の意味合い。これは諸外国の方が強い気がするが、日本でもLGBTに対してそういうポジションを取る側面もあるだろう。

 一方でLGBTはある意味セクシャリティの進化の先端でもあるので、常に変化していて恐らくLGBTコミュニティー内でも様々な見解や意見があるのであろう。自分はそういうコミュニティーに属してないので間接的な推測であるが、そもそもLGBTQという言い方をし始めている国もあり、要はストレートでないセクシャリティを一括りにしている時点で、非常に乱暴なラベリングで、議論そのものを複雑化している。

 で、件の杉田水脈議員や彼女を擁護する人たちの意見だが、それも保守的、伝統的なセクシャリティの立場としてそういう発言をする自由は何よりも沈黙を社会に強いられる事が歴史的に多かった立場であるLGBTのコミュニティーが発言する権利は擁護すべきであると思う。その意見には全く賛同しなくても、そういう意見そのものを否定したら、自らの悲劇の再生産。

 意見に賛同できない場合は、無視か、ちゃんと反論するかだが、LGBT側を代弁していると思われる反論を見ても、わざと誤解させるような文脈の切り取りとかを行い、政治的なネタとして煽ってるだけにみえる。結局LGBT当事者じゃない人間同士の言い争いにしか見えない。

 また日本においては伝統的にセクシャリティに関しては非常に寛容で多様性があった。そもそもLGBTの議論と解放は特定の宗教においてタブーとされるセクシャリティに抗う歴史であり、宗教色が強い国が教義として社会的・精神的・文化的にセクシャルマイノリティーを迫害していた背景がある。

 日本はそもそもそんなに宗教色が強い国ではないので、セクシャリティのタブーも少なく、LGBTそのものの社会的迫害の歴史もあまりない。個々人レベルでは色々な人は居るだろうが、それこそセクシャリティの本質である。今の日本のLGBTの議論はLGBTという元々日本に馴染みがない括りを輸入したことで、そもそも無かった分断を生み出し、そこで交わされる様々な本音や建て前の議論にLGBT当事者が晒される事で自らのセクシャリティに対する危機感を感じる。

 結果的に感情的な応酬になって、一方を悪者と仕立て上げようとするメディアの煽りに大衆が踊らされている。どっちが悪者という議論ではなく、セクシャリティそのものは個々人の問題なので、本来はセクシャリティと関係無く、LGBTという集団によって浮かび上がる社会の課題とかを解決すべく議論をするのがLGBTという括りの意義ではないだろうか?